『推し、燃ゆ』はつまらない?オタクによる感想。
『推し、燃ゆ』は、宇佐見りんさんの小説で、第164回芥川賞受賞作です。
綿矢りささん、金原ひとみさんに次ぐ、史上3番目の若さ(21歳)での受賞だそうな。
書店に行くとたくさん積んでありますね。
皆さん、もう読まれましたか?
私は先日読み終え、その後他の人たちの感想をチェックしました。
「つまらなかった」という意見もチラホラありました。
ひょっとしたら、「推し」という存在ができたことのない人からすると、ちょっと理解不能だったのかな…
と、K-POPオタクの私は思いました。
ということで、今日は宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』について決定的なネタバレなしで感想を書いてみたいと思います。
『推し、燃ゆ』あらすじ
主人公あかりは女子高生。
アイドルグループ『まざま座』のメンバー、上野真幸(うえのまさき)を推している。
ある日、真幸がファンを殴ったとしてSNSが炎上する。
詳細はなにひとつわかっていない。
そんななか、あかりは<病めるときも健やかなるときも推しを推す>とSNSに書き込む。
あかりは生きづらさをかかえた子で、学校の保健室の常連である。
保健室で受診を勧められて行った病院では、ふたつの診断名が下された(本書では病名は明記されていないが、ひとつは「発達障害」であると言われている)。
あかりにとっての「推し」がどのような存在であるかは、次の文章からはっきりと読み取ることができる。
あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。
勉強や部活やバイト、そのお金で友達と映画観たりご飯行ったり洋服買ってみたり、普通はそうやって人生を彩り、肉付けることで、より豊かになっていくのだろう。あたしは逆行していた。何かしらの苦行、みたいに自分自身が背骨に集約されていく。余計なものが削ぎ落とされて、背骨だけになってく。
(太字は当ブログ筆者による)
生きづらさ(病気)をかかえ、勉強もバイトも他人と同じようにはできず、家族とも諍いが絶えないあかりにとって、「推しを推すこと」は「背骨」なのである。
他のことはどうでもいい。推しを推すことだけに、異常なまでにのめり込んでいくあかり。
推しを推しているときだけ、あかりは自分が生きていることを感じることができるのだった。
全身全霊で推しを推すあかりの未来には、いったい何が待っているのだろうか。。。
『推し、燃ゆ』感想
あかりはラジオ、テレビなどでの推しの発言をすべて書き留めています。
推しという人間を解釈するために、です。
推しが所属するグループ『まざま座』の他メンバーが一度、推しになりすましてSNSで呟きましたが、あかりはすぐにおかしいと気付きました。
そこまで、推しがどういう人間であるかを研究しつくしているわけです。
さて、少し私の話をさせてください。
冒頭でも書きましたが、私はK-POPオタクです。
数年前、私は日本で頻繁にイベントをしていたあるグループにハマりました。
最初はただ見ているだけでよかったのですが、「推しの写真をキレイに撮りたい」という願望が高まり、わざわざ一眼レフカメラを購入しました。
キレイな写真をハッシュタグを付けてSNSに流すと、たくさんの「いいね」が付きます。
そうすると、自分がなんだか推しの役に立っているような気がしてきます。
今度はCDを買って、推しと少しばかり会話をしてみました。
すると…
とんでもなく優しい!!笑
数日置いてまた会いに行くと、
「先週、◯◯に来てくれてましたよね?」などと言ってくれる!
(やばい!推しに認知されてる!)
ファンにそう思わせることができたら、アイドル側の勝利。
チョロオタ(ちょろいオタク)の誕生です。
推しとたくさん話がしたくて、同じCDをいっぱい買ったり、同ペン(推しが同じファンの子たち)よりも中身のある会話がしたくて、何時間もかけて質問を考えたり、今思えば当時の私の生活は「背骨」に集約されていた感があります。
あかりのように、推しの人となりを<解釈>しようと、メモを取ることまではしませんでしたが、推しを推すことに全身全霊を傾けるあかりの気持ちは理解できます。
私の周囲には、「背骨」以外のすべてが削ぎ落とされた女性たちがたくさんいました。
推しをもったことのない人からすれば、「なんてバカバカしい」「お金の無駄」「推しが人生の責任をとってくれるわけでもないのに」と思われても仕方のないことかもしれません。
ですが、推しを推している瞬間、オタクは「生きている」ことを実感します。
朝目覚めれば推しを思い、一日のすべてを推しを思うことに使う。まるで修道女のような一途さです。
「背骨」以外を削ぎ落として推しを推し続けていると、自分のしていることは純粋で崇高なことである気さえしてきます。
「私ってえらくない?こんなにがんばって」
自分で自分の推しへの愛に酔うことも。
<依存>と言われてしまえば、そこまでかもしれません。
ですが、推しをもったことのない人からは想像もできないような高揚感が、そこにはあるのです。
生きづらさをかかえるあかりが、推しを推しているときだけは生きていることを実感できたというくだりは、ものすごくリアリティーがあります。
「背骨」に集約された生き方は、あかりをいったいどこへ連れて行くのでしょうか。
ぜひ、この作品を読んで確かめてみてください。
ちなみに、私自身は同ペンのみんなを俯瞰で見ているうちに、急に「やめよ」と思い立ちました。
おかげで、推しを推すことは背骨ではなく、脇腹の肉くらいになりました。
でも心のどこかで「また私を背骨だけにしてくれるようなアイドルはいないかな…?」と思っている自分がいます。
それくらい、オタ活で味わう高揚感はすごいものなのです。
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